◇寺尾紗穂エッセイ

  • 実行委員長の寺尾紗穂がこれまでにりんりんふぇすの記念冊子に寄せたオリジナルエッセイを掲載しました(2013~2017年)。ぜひご一読ください。

一人を作らない(りんりんふぇす2016)

寺尾紗穂

 

 元原発労働者のYさんから少しずつ「エンディングノート」が送られてくる。故郷の広島のこと、農薬の吸いすぎで死んだかもしれない父親のこと、会うことのできない姉兄のこと。2015年に『原発労働者』(講談社現代新書)という本を出したが、初めて取材させてもらった元労働者がYさんだった。

 2007年ごろから中越沖地震直後の柏崎原発に入り、太いケーブルを長い地下トンネルに通して行く仕事をされていた。何の水かわからないまま地震後のトンネル内の水溜りを掻き出しては辺りに撒くよう指示された。しばらくして脱毛、高血圧などの症状が出ていたが、その後心筋梗塞、心臓の弁手術を経て、今年脳出血で再び入院した。

 

「消灯後のベッドの中で涙して人生を捨てる事も何度か考えましたが、それでもやり遺している何かがあると、言い聞かせながら生きていこうと思います」

 

 退院は当初9月の予定で、Yさんの誕生日に間に合いそうだったので、「退院したらおいしいものでも食べに行きましょうね」と誘っていた。本当ならば、今年のりんりんふぇすの座談会「ひとりの老いを、みんなで生きる」にお呼びしたかった。Yさんは他でもない、この梅窓院の建設現場にいた人でもあるのだ。そのことがわかったのは、今年に入ってかかってきたYさんからの電話だった。

 

「寺尾さん、あのイベントやってる梅窓院って、なんか聞いたことあると思ったら、私あそこ作ってんですよ。あのときは落ちた人もいて、結構危険な現場でした」

 

 都市から流れて行く原発労働者、建設現場で働く日雇い労働者。やはり両者は限りなく近いところにいて、Yさんはその両者を生きた人だった。Yさん、梅窓院、私をつなぐ不思議な縁を思った。車椅子だとしても、誰かに手伝ってもらって、りんりんふぇすに来てもらえないかとも思ったが、退院は11月へ延びた。夜が積もって行く。死を考えるというYさんに「そんな気弱なこと言わないで」とは言えなかった。ただ、Yさんがやり遺している何かを、見つけられるものなら、一緒に見つけたいと思った。

 

 Yさんに座談会に出てもらえないかと思ったのは、「一人の老い」を現在進行形で生きる人だからだ。私も微力ながら退院時の付き添いや、役所に電話して利用できるサービスがないか聞いたりといったことをやっていた。「被ばく労働を考えるネットワーク」の方たちも力を貸してくれた。しかし、Yさんは性格に激しい部分があって、役所の電話の人は閉口してクレーマー扱いしているようだったし、被ばくネットの人たちも、理不尽な怒りをぶつけられてもう付き合っていられない、と関係を絶ってしまった。

 

 難しい性格の人というのは、確かにいる。幼かったり、感情的だったり、うそつきだったり、不安定な性格だったり。それが生来の人も、過酷な環境で育つ中で精神の不安定要素を抱えてしまった人もいるだろう。ぎりぎり病気でない人もいるし、病気の人もいる。その境目はあいまいだ。

 

 けれど、社会の中で普通に生きようとするとき、それは確実にハンデになる。社会性の欠如はそのまま、挫折や失望となってその人の人生にふりかかる。ビッグイシューを始めとして、大変な人生を歩む人たちをサポートするNPOなどのスタッフの人々の話を聞いていると、日々難しいタイプの人たちとうまくやっていけるよう、あれこれ頭を悩ませていることがよく伝わってくる。

 

「アジアの汗」という歌で私は「目のきれいな独り者」のおじさんの生き様を歌ったが、それは言ってしまえば、一人の人間の一面を一瞬美しく描き出したに過ぎない。誰もがどうしようもない部分を持っていて、ずる賢いところもある。相手によって態度を変えたりもする。

 

 Yさんも往々にして「難しいタイプ」と見られるが、結果として私はYさんとつながっている。彼は元原発労働者として時折講演の依頼なども受けていたから、講演の企画者だった女性も、退院時に心配して駆けつけてくれたりする。

 

 たぶん大切なのはそういうことなのだ。つまりたくさんの人とつながっておくこと。どこかで不躾をやってその関係が絶えてしまっても、まだ友達でいてくれる人を作っておくこと。そうでなければ、本当に一人きりで生きることになってしまう

 

 私の好きな映画に真鍋俊永監督のドキュメンタリー映画「みんなの学校」がある。舞台の大空小の校長先生の問いははっきりとしている。

 

「あの子がいるならあの学校は行かせたくないという。

 それならそういう子達はどこにいけばいいのか」。

 

 これは学校における問題児の教育について投げかけられた言葉だ。けれど、私にはこの社会全体に投げかけられた言葉のように聞こえる。普通じゃない人、社会性に欠けた人、怠惰な人、そういう人は社会からはじかれて無視されていいのですか。そのような問いを突きつけられているように聞こえる。学校と社会はつながっている。

 

 最近、筒井勝彦監督が作りたてのドキュメンタリー「ニッポンの教育」を送ってくれて、その中でもとても良い言葉にであった。日本の教師を変えて行くべく寺子屋を開いたり出前授業で奮闘する菊池先生の言葉だ。先生が黒板に書いた言葉の美しさに息を呑んだ。

 

「一人は美しい。一人を作らない」

 

 誰かとの関係を選ぶのは自分自身。周囲の顔を見回して決めるのではない。一人の人間として、自分の目で見て判断し、相手と向きあうこと。その大切さ。同時に、誰かの孤独に敏感であること。寄り添える心を持つこと。菊池先生が生徒たちに発信したのは愛のメッセージだった。

 

 そうか、たくさんの先生がいるけれど、注意やお説教以外にこうしたストレートな愛のこめられた言葉を届けている先生がどれくらいいるのだろう、と思った。そして、もしもそういう先生が増えて、日本中のこどもたちにこのメッセージをまっすぐに届けることができたら、誰かをいじめる子も、いじめで自殺する子もいなくなるはずだと思った。

 

 Yさんと出会って6年になる。いろんなことを学んだ。家族のない人が、若いうちに健康を損なうと、公的なサービスから洩れてしまいやすいということも、感じた。一人で老いていくというのは本当に大変なことだと思った。

 

 けれど、だからといって老後の不安をまぎらわすべく、保険みたいに結婚したり子供を作ったりするのもおかしな話だ。そして、結婚していたって、子供がいたって、一人で生きることになる可能性は誰にでもある。一人でも、病気がちでも、今から、どれだけ「みんなで生きる」「誰かとつながる」を実現できるか。

 

 結局、個人主義がスタンダードとなったこの時代、誰もが他人みたいな顔をしている都市生活の中で、孤独な人の悲しみがこの社会の綻びだ。どこまで人と人をつなげ、結びつけることができるのか。健全な人たちだけじゃなく、ちょっと困った人たちや非社交的な人たちも含めて、ゆるやかにみんなでつながれる場所やシステムをどれだけ作っていけるのか。

 

 宮本常一は『家郷の訓』という戦前に書いた本の中で次のように述べている。

 

「本来幸福とは単に産を成し名を成すことではなかった。祖先の祭祀をあつくし、祖先の意志を帯し、村民一同が同様の生活と感情に生きて、孤独を感じないことである。われわれの周囲には生活と感情とを一にする多くの仲間がいるということの自覚は、その者をして何よりも安からしめたのである。そして喜びを分ち、楽しみを共にする大勢のあることによって、その生活感情は豊かになった。悲しみの中にも心安さを持ち、苦しみの中にも絶望を感ぜしめなかったのは集団の生活のお陰であった」

 

 祖先の意志を帯すだの、集団の生活だのというのは、もはや時代の感覚にはフィットしないだろう。ただ、「仲間がいるということの自覚」こそが個人の崩壊を支えることができる、というシンプルな事実は、これからの社会を考えるとき、いろいろな場所で思い出さなくてはならないことだと思う。

 

 一人を知ることは他/多を想像することにつながる。Yさんの話を聞きながら、声を出さずに諦めているたくさんの一人ぼっちの人たちの声が聞こえてくるような気がした。

 

 いつの世も、悲しみ苦しみはなくならない。一人の人間が、絶望で周りが見えなくなる前に、ふと差し出される手のようなつながりが、社会のあちこちにゆきわたってほしい。

 

 りんりんふぇすも、スタッフやお客さんに支えられて8年目。ここでつながった人々の手のぬくもりを忘れずに、それぞれの人がそれぞれの次の場所で、と祈りをこめて。

 

 今年もご来場ありがとうございます。

 


ダンスする社会へ(りんりんふぇす2016)

寺尾紗穂

 

 開催七回目にして、売り切れ御免となったりんりんふぇす。人気の出演者がそろった効果もあるだろうけれど、それでも、半数は毎年のように足を運んでくれる人々だ。加えて新しいお客さんもたくさん。ありがたいことだと思う。

 

 今年の座談会は、「表現すること 生きること」。当事者としてはソケリッサメンバーが登壇する。路上生活経験者からなる舞踏グループ、ソケリッサとは、2015年の楕円の夢ツアーを経て、金沢21世紀美術館のイベントや、山形ビエンナーレでの共演とご縁が続いている。

 

 金沢の楽屋で、ソケリッサメンバーのKさんが、歌を歌っていたので、何の歌か尋ねると、

「え、これ?あの、イタリアの歌なんです」

という。しかしKさんが歌っているのは日本語だ。

「日本語の訳もあるんですけどね、ずいぶんニュアンスが違うもんだから…」

 

 どうやらKさんが独自に訳したものらしい。Kさんはロンドン帰りで以前もキャロル・キングの日本語訳などを試みていた。しかし、イタリア語ができるとは聞いていない。「ニュアンスが違う」ことがわかるのだとしたら大したものだ。イタリア語ができるんですか、と尋ねると

「うん、まあ、その、感覚でね」

と照れている。

 

 後日聞いたところによると、ロンドン時代にイタリア人の彼女がいたらしい。その訳がどれほど正確なものなのかわからないけれど、目の前のKさんは甲高い声で自分の訳でとうとうと歌っている。いつの間にか振りまでついている。そして、21世紀美術館のステージ上でもそれを披露したのだ。

 

 人が自由に表現するというのはこういうことだな、と思う。何かが違うと思って、自分のやり方でやってみる、それを臆さず人に伝える。歌で、踊りで、言葉で。正確かどうか、はもはやどうでもいいのかもしれない。型からはみでてこそ表現、かもしれない。

 

 数年前のりんりんふぇすで、児童養護施設出身のYくんに座談会に参加してもらったことがあった。その後、彼に改めて話を聞いたり、福祉の研究者になっている同級生に話を聞いたり、地方や東京市部の児童養護施設にも何度か話を聞きに行った。色んな人の話を聞きながら考えたことも「表現」についてだった。

 

 施設を出た後の子供たちの就職について聞いたとき、うまく就職できた子も、心を病んでいる子が多いので、途中で挫折してやめてしまうケースが多いと聞いた。施設出身者の就職を応援するNPOなどもできており、就職するまでを実績にするが、その後のケアがほとんどないことが問題、と出身者であるYくんは言っていた。

 

 耐えること、我慢すること、やりぬくこと。それらは心に芯が育っている人にはできることだ。しかし、小さいころにその芯を育てる機会を失い、大人になってしまった、そういう環境に生きてくるしかなかった若者たちが、挫折したときに、「忍耐力がない」「転落するのは自己責任」と責めることは酷だと思う。スタッフの方によれば、会社の挫折組は大体男性は建設現場、女性は水商売に流れると言う。それらの仕事が悪いとは言わない。適性のある人もいるだろう。でも、あまりにも選択肢がない。

 

 世の中には色んな仕事がある。私はたまたま書くことと歌うこと、表現することを仕事にしている。表現だけで食べていくのは大変だが、何かの仕事をしながら表現を続ける人もたくさんいる。そもそも仕事が一つでなくたって全然いい。

 

 施設を出た子供たちがせっかく会社に就職しても挫折してしまう、という話を聞いたとき、直感的に思ったのは、二つのことだった。一つはそこに適性を見いだせた人はいいけれど、そうでない人が会社に入ってフツーの仕事をする必要はないだろう、ということ。もう一つは「表現」にかかわることが、彼らが過去を見つめながらも、その心を強いものにしていくのではないだろうかということだった。

 

 「表現」という行為そのものに、癒しの力があることは私自身が創作する中で感じることだ。「表現」にすることができたとき、波立っていた感情も過去の出来事も行き場所を与えられて、前に進むことができる。あるいは、そんなに簡単に片付かない根の深い感情であっても、「表現」の中で美しく描くことで、それはある種の自分にとっての夢や祈りになる。少しずつでも前に進むために、過去に重たいものを背負いこんでいる人ほど、本当は自己と向き合って表現によって吐き出すことが必要ではないか。

 

 これは私の直感に過ぎないけれども、少なくともフツーの会社に入って社会不適合の烙印を押されて落ち込ませる前に、彼らと一緒にできること、こんなこともできるよ、と選択肢を広げること、やっていかなければいかないことはまだまだあるのではないだろうか。彼らの心にとって何が一番望ましいのか、これからでも心の芯を作っていくことができるとすれば、そのために必要なきっかけとは何なのか。

 

 施設では例えば、ピアノの先生がボランティアで来てくれるところもある。でも、その方が何らかの理由で来れなくなってしまえば、そこで子供たちのレッスンは途絶えてしまう。施設の方も、誠意をもって精一杯のお仕事をされていると感じたが、「従来」のあり方から一歩も二歩もはみ出ていかなければ、根本の問題は変わっていかないように感じた。

 

 先月公開された野中真理子監督作品「ダンスの時間」というドキュメンタリーを見た。この映画にはコンドルズの近藤良平さんが「正直言って最高です。何がいいかっていうと、全然ダンスの映画じゃないです」というコメントを寄せているが、私が印象に残ったのも、主役のダンサーである香織さんが認知症の母親に懸命に向き合う姿だった。

 

 「だめです、だめです」と否定語を重ねる母親に、「だめじゃないよ、上手にできてるよ」と香織さんは何度も語りかけていた。つまり、こうやって人に真正面から向き合うこと、視線を、言葉を、ぬくもりを投げかけ、交し合うこと。これがダンスの本質であり、香織さんはこの瞬間も踊っている、表現しているんだ、と感じた。

 

 先日「CFC(チャンス・フォー・チルドレン)」というNPOの方に会う機会があった。このNPOは、個人や企業から集めた寄付をもとに、東日本大震災で経済的に打撃を受けた家庭や貧困家庭の子供たちに塾や習い事に使えるクーポンを送るという活動を続けている。すべての希望者には到底渡せないため、選考しているが、このシステムの画期的なところは、子供自身が選択肢を与えられている、という点だ。寄付で何かを買って渡されるのでも、現金を直接もらうのでもなく、自分に必要と思う習い事にクーポンで通うことができる。そして、たくさんの人が自分の進みたい道のために支援してくれた、という事実は子供たちの中で決して小さくないあたたかな事実の重みとして残っていくようだ。

 

 CFCというNPOを通してはいるけれど、ここにも一人の人間を見守る人と、見守られて進む人との小さなダンスが生まれている。相手の姿は見えないけれども、心と心は寄り添って互いにそのリズムに耳すましている。

 

 人は人に優しい、と信じている。無知や偏見、社会のシステム、その他様々な要因があってそれが疎外される。その疎外要因を一つ一つ見つけて取り除き、社会に温かみを取り戻す活動に、すでに取り組む人々もいる。

 

 NPO認定法人「もやい」の理事稲葉さんは、りんりんふぇす実行委員会にも当初から加わってくださっているけれど、最近は「つくろいファンド」という活動で、好意的な大家さんと連携して住む場所に困った人が一時的に利用できるシェルター物件を複数スタートさせている。「つくろい」という言葉は「繕う」からきている。ちくちくと地道に社会のほころびを直していく、そんな思いがにじむ素敵な言葉だ。

 

一人の人を見つめること、一人の声に耳を傾けること。

社会のあちこちでたくさんのダンスが生まれるように。

人は優しい、その優しさをすぐに思い出せる社会になるように。

 

ご来場ありがとうございます。

 


ポケットの中のチョコレート(りんりんふぇす2015)

寺尾紗穂

 

 6回目のりんりんふぇす。10回開催を目標にして、去年折り返し地点を迎えた。加えて去年は大盛況で過去最高の来場者数。同じ催しをこれだけ順調に続けてこられたのは、私の心がけというより、りんりんふぇす実行委員会メンバーの熱意と細心の賜物だ。そもそも、私は歩いていても自転車に乗っていても一日に二度同じ道を通るのが嫌いだ(子どもの送り迎えなどしているとそうも言っていられないが)。レコーディングにしても録り直し回数を増やすほど出来は悪くなり、OKテイクは大抵取り直し3回以内にしか存在しない。

 

 ありえないことだが、もし、一人か二人でりんりんふぇす企画をやっていたとしたら、私がその繰り返しに飽きて、次第に打ち合わせ回数も減っていき、小さな教訓はとりこぼし、惨憺たる結果になるのが目に見えるようだ。毎年本番までに同じような打ち合わせを何度も繰り返し、しかし、着実にこまこまとした教訓を盛り込んで会を盛会に導いているのは一緒に動いて引っ張っていってくれる有能な仲間たちがいるからに他ならない。

 

 私はどちらかといえば、ふわふわ風船みたいに旅をするのが好きだ。未来について夢想するのが好きだ。10回はやります、と公言したその言葉を重しにして、今は一つ場所でりんりんふぇすをやっているけれど、その重しがなくなった時、どんな風が吹いていて、どんなことが始まるのかな、何ができるのかなとすでにわくわくしてもいる。

 

 旅といえば、ソケリッサとめぐる「楕円の夢ツアー」も先月の神戸公演でファイナルを迎えたが、実はまだ終わっていない。鳥取の追加公演に引き続き、11月の金沢公演まで決まっているからだ。りんりんふぇすにきて下さる方の多くはすでに承知の事実かもしれないが、改めて説明すると、私は3月に「楕円の夢」というアルバムを出した。これの全国ツアーをソケリッサと回りたいという希望から4月の一ヶ月間、彼らの宿泊費・交通費をまかなうクラウドファンディング(寄付)を募ったところ250万円が集まり、全国沢山のお客さんにソケリッサとのコラボを見ていただくことができた。

 

 熊本は、フィーバーしすぎて、後半お客さんが一緒に踊り始め、シリアスな曲でも私が笑いをこらえて歌うはめになったり、富山は少年がノリノリで踊ってくれたり。私はほとんど弾くほうに集中しているので彼らの踊りの全貌を知ることは出来ないけれど、会場によって、終わった瞬間みると舞台がおじさんだらけになっていたり、女性のお客さんばかり踊っていたりさまざまだった。終了後声をかけてくれる人の中には、目を潤ませている人も少なくなかった。

 

 ライブが終わるたび、お客さんの反応を知りたくてツイッターも見ていたが、特に心に響いたものにこう書いている人がいた。

 

  「連日職場で理不尽に怒鳴られてるけれど、全然平気。寺尾さんと

   ソケリッサのライブを観たから。手の中のチョコレートを少しずつ

   食べているんだ。しばらくなくならないようなので大丈夫」

 

 これを読んで、私とソケリッサのコラボレーションは夢になれたのかもしれない、と思った。いや、夢というと少しふわふわしたイメージだし、希望というと少し大げさすぎるかもしれない。夢みたいに甘いけど栄養があって今日明日を生き抜くエネルギーに変わる、まさにチョコレートのようなもの。

 

 大して知名度のない歌手と路上生活経験者の踊り手たちとのプロジェクトにたった1ヶ月で250万円もの大金が集まったとき、私は、人々がこの社会に何を求めているかを教えてもらった気がした。人が人を蔑んだり、排除したり、選別したり、攻撃する社会ではなく、人が人を知り、心を寄せ、共に感じ、困っている誰かがいたらさっと手が差しのべられる社会。これまでラッキーな人生を送ってきた人も、いまいちだった人も、生きている今、自らを生き生きと表現できる社会。

 

 これは異論がでるかもしれないけれど、私はいつも「人はみんなおんなじ」だと思っている。お前はラッキーな恵まれた半生を送ってきたから、そんなお気楽な結論が導き出せるんだ、とつっこまれるかもしれない。生まれてくる環境はもちろん選ぶことができない。その意味で人生は不平等だ。けれど、私がここで言いたいのは、人間が天や神様から与えられる才能や美点、そして欠点や短所についてだ。

 

 自分自身や周りの人々のことを考えてみるにつけ、いつも「何かを多く与えられた分 何かを多く奪われており、何かを多く奪われている分 何かを多く与えられている」ということを感じる。その意味で人間というのは、どこまでも平等に作られているような気がしてならないし、可能性という贈り物がその人に残されている以上、半生を見ただけでその人の人生は判断することができないとも思う。

 

 再びソケリッサの話に戻ると、今ツアーで全箇所を回ったのはリーダーのアオキさんを含めて4名だ。しかし、本当はもう一人のメンバーKさんがいる。Kさんは練習が嫌いで、めったに練習に来ないので、アオキさんは全箇所一緒にまわることはできないと考えていた。しかし、東京公演とKさんの強い希望で広島公演(とおそらく9月21日神戸公演も)は一緒にまわることができた。

 

 若い頃は演劇をやっていたKさんは数年前まで競馬狂で、踊っていて転ぶとポケットから馬券が散らばるという伝説的なエピソードが周囲の語り草になっている人物だ。練習に心を入れ替えて今度からちゃんと出る、と言っては来ないことの繰り返しだったとアオキさんは語る。東京公演の舞台上のMCで私が競馬や練習のことなどをKさんに尋ねると、「もう競馬ではなく、踊りや、もっと別なことに専念したい」と答えてくれた。「もっと別なこと」について尋ねると「紙芝居が好きなので小児病棟などでの活動をしていきたい」という答えだった。

 

 私はとっさに次女が2歳のときに5日間ほど入院したときのこと、そのときの小児病棟のことを思い出した。小さな子たちが管につながれたり、母との別れに泣き叫んだり、少しの間いるだけでも胸の詰まる思いがした。そういう場所で紙芝居がしたい、というのは、Kさんの中にそういう小さな子たちの悲しみの感覚が共有されてあるのだろうと思った。そのKさんの気持ちが尊いと思った。広島公演で広島にどうしても来たかった訳を聞いてみると、原爆ドームを見たかったという答えが返ってきた。Kさんの中で平和の問題は小さくないもののようだった。

 

 Kさんはまた練習に来なくなるかもしれないし、また競馬にはまってしまう日が来るのかもしれない。それでも、Kさんの心の美しく、真面目な部分はいつまでもKさんの中に変わらずあるのだと思う。それがいつか綺麗に花咲く日が来ることを願わずにはいられないし、何か手伝えることがあるのなら喜んで協力したいと思う。

 

 楕円のツアーの最中、かつてはジャニーズの振り付けやダンサーをしていたアオキさんを紹介するとき、私は何度か「華やかな世界を離れて、こういうソケリッサの活動をされています」と言ったことがあった。そのたびにアオキさんは「こちらも十分華やかですよ」と爽やかに笑った。そのとおりだと思った。もちろん何百人という会場ではないけれど、全国を回った会場はどこも沢山のお客さんに見守られていた。そして、寄付をしたけれど会場に来られない方も含めて沢山の方の温かな期待に寄り添われていた。全国のあちこちに、大切な素敵な縁が生まれていった。

 

 私がソケリッサやりんりんふぇすと一緒に夢見る社会は、虹の彼方にあるのではない。ポケットに入れたチョコレートの確かさで、手を入れたら触れることのできる確かさであなたの傍に、今日来てくれた方たちの中に在ると思っている。夢と希望のはざまにあるチョコレートのような、温かな気持ちを今年も沢山の人とアーティストと一緒に分かち合い、持って帰っていただけたら何よりも、嬉しい。

 

 ご来場ありがとうございます。


5周年に寄せて(りんりんふぇす2014)

寺尾紗穂

 

 アーティストオファーというのはなかなかしんどい。5年間を振り返って不思議にすんなり決まった年もあったが、毎年これが決まらないとフライヤーが作れないというプレッシャーの中で思うように進まず、しんどさが押し寄せることもある。まず、お願いしたいアーティストに手紙と企画書を出す。

 

 しかし、そもそも無報酬のイベントで、半年先の土曜や日曜の予定を開けておいてくれという依頼自体、きわめて難しいもので、無報酬という時点で受けられないと言われることもある。むしろそうやって即答されるのは有難い方で、半年近く返答を延ばされて断られることも一度ならずある。そんな状況だと二つ返事で受けてくださる方が神様に見える。しかし、無報酬でもあり、基本は一度出演いただいたらしばらくは頼めない。そういう意味でもじわじわと人選が難しくなっていく。

 

 今回ベテラン勢を巻き込めなかったのは、そういう苦戦の結果ではあるけれども、幾人ものアーティストが「趣旨には共感する。予定があったら来年は是非出たい」と言ってくれたのがせめてもの救いだ。今回初の開催月となった12月というのはそれぞれに年末恒例のイベントが入っていることなどが多いのだが、その中で快く今回参加してくれる5組に改めて感謝したい。

 

 貧困問題がもはや若者や子どもの問題と言われる昨今、5周年という節目の年にフレッシュなアーティストで、若いお客さんを沢山迎えて開催できる、ビッグイシューを知ってもらえるというのは、とっても嬉しいことでもある。

 

 りんりんふぇす実行委員会にも参加してもらっている認定NPO法人もやいの稲葉さんとここ二年ほど、講演とライブのコラボをさせて頂いている。稲葉さんがその講演の中で原発の問題に触れ、東電を悪者にして終わらせることはできない、というくだりの中で、「チッソは私であった」という緒方正人さんの著書のタイトルを紹介されたことがあった。それは、自分の中の加害から目をそらさぬこと、誰かを犠牲にするシステムに組み込まれて生きていることを自覚すること。その時はそんなことを思い、頭でわかったつもりになっていた。

 

 水俣病について教科書的な知識しかなかった私が、石牟禮道子『苦海浄土』という本を読み始めたのは最近のことだ。私の音楽を好きでいてくれる知人の二人が相次いで、石牟禮さんの世界に繋がっていると思う、と勧めてくれたのだ。そこには生々しい水俣の現実が、土地の言葉で記されていた。

 

奇病のもんばかりが苦労が荷負うとるごつ思うな。オレ共がふところも、どれだけ傷 むか。アカの他人の有難くも思わんもんどもの為に。 市民の銭ぞ。生活保護は。市民がな。出し被りよる訳ぞ、水俣病のもんどもに。

 

 水俣病を抱え込んだ水俣の市民たちは故郷の汚染に怒り、患者の抱えた悲惨に寄り添ったのではないか。理由もなく、そんなイメージを持っていた私は、この水俣市民対水俣病患者という極めて生々しい対立にじむセリフに、恐ろしくなった。あいつは補償金もらってて生活も豊かなんだから生活保護を取り消せ、そんな投書も役所にあったという。水銀を垂れ流したチッソは、町の誇り、文明の証、地域の発展を約束してくれる存在だった。貧乏な漁民が腐った魚食べ過ぎて病気になったのだ、そんな視線が水俣市にあふれていたのだという。

 

 石牟禮さんは言う。

 

言われなき差別というけれど、差別の湧いてくる源はもっとも虐げられるものたち同士のよるべなき怨念の間から立ちのぼるのであり、差別のいわれほど深く救いがたいものはない。

 

 同じような境遇の者が、少しの違いを見つけては、相手をこき下ろし、引きずり落とすことでわずかの優越感を守ろうとする。「市民の銭ぞ。生活保護は」かつて水俣で満ちた呪詛の言葉は、今、標準語となって日本全体に広がった。

 

 デビューしてから8年近く、ずっと福岡の地から応援してくれているファンの方がいる。先日その人から大きめの封筒が届いた。中には「声なきブルースの町 さんや」という1969年の『ニューミュージックマガジン』4月号掲載の中村とうようさんの書いた記事のコピーが入っていた。そこには、69年の2月に神田のYMCAホールで開かれた岡林信康さんの言葉が載っていた。

 

ぼく山谷でいろんな奴とつきおうてみてわかったんですけども、戦争で家やられた人や工場がつぶれて失業した人、それに農家から出稼ぎに来て住みついてしもた人――マァとにかくギセイ者が多いんですね。そやから、山谷の人夫チャンを必要としてる世の中の仕組みが悪いんか、落ちてく人が悪いんかいうたら、俺は仕組みのほうが悪いんちゃうか思いまんね。

 

 工事現場や原発労働など「人夫チャン」を必要する「仕組み」は、派遣労働という形ですでに身近なものとなった。 

 

  だけど俺たちゃ泣かないぜ

  働く俺たちの世の中が

  きっと、きっとくるさ、そのうちに

  その日は泣こうぜ、うれし泣き

  (岡林信康「山谷ブルース」)

 

 りんりんふぇすって、政治色敢えて薄めてるんですか、と最近聞かれた。私は、薄める必要がなかった、と答えた。薄めるものでも足すものでもなかった。りんりんふぇすを生んだ種は私と坂本さんという元日雇い労働者のおじさんとの出会いそのもので、間違えても政治ではなかったから。

 

 りんりんふぇすには色んな人に集まってほしかった。そして会場のどこかで、私が坂本さんと出会ったようなささやかな、でも大切な出会いが生まれることを期待していた。10年続けてそんな出会いが一つでも生まれたら嬉しい、と思っていた。岡林さんが「きっとくるさ」って歌った「俺たちの世の中」について、私は「きっとくるさ」とは歌えない。

 

でも、たくさんの人と、日の差す方向を向いていたい。

夢をみたい、と思う。

ぼんやりと、ではなく、背をのばして。

折り返し地点までりんりんふぇすを支えてくださったすべての方、そして今日集まってくれたすべての方に。

 

 ご来場ありがとうございます。


りんりんふぇす開催に寄せて(りんりんふぇす2013)

※「これまでの経緯」に掲載した文章と同文です

寺尾紗穂 

 

 今回で4回目を迎えるビッグイシューサポートライブだが、「りんりんふぇす」というのはそもそも、これまでに1回しか開かれていない。第3回目からの愛称だ。第1回目は人を介して会場の「H寺」側とやりとりをしていたこと、「H寺」側の対応への不信感もあって、おわった時には、来年以降このイベントをどうやって存続させていこうか、という不安に包まれていた。

 

 2011年5月、そんな不安を抱えたまま、私は一本のPVを作って公開した。そしてこの「アジアの汗」のPV撮影の過程で、私はNPO法人自立生活サポートセンター・もやい(以下、「もやい」)の稲葉剛さんという素晴らしい協力者と出会うことができた。「アジアの汗」は、私が大学時代山谷の夏祭りに行った時に出会った坂本さんという、絵描きで元土方のおじさんとの出会いにインスピレーションを得て、出来上がった歌だ。坂本さんがたまたま私が通っていた東京都立大学の八王子キャンパスを建てた、ということも不思議な縁を感じた。

 

 坂本さんは出会ってから5年後に突然死し、私は否が応にも、この短くも印象的な出会いの意味を考えさせられた。だから、「アジアの汗」のPVは坂本さんを偲ぶことのできる、ドキュメンタリータッチのものにしたい、と思っていた。そして、出来ることなら絵描きだった彼が生前私に見せてくれた沢山の絵をPVに撮影したいと思った。つてをたどって遺された彼の絵の所在を追っていくと、それは「もやい」に保管されている、という事がわかった。

 

 松江哲明監督にこの話を投げかけたところ、私が作りたいものを察してくれた監督は当日、自身のハンディカメラをさっと私に手渡してくれて、「寺尾さんも撮ってください」と言ってくれた。「アジアの汗」のレコーディングをやった市ヶ谷の、よく路上のおじさんたちが小さな宴会をしている地下通路を撮り、その後「もやい」のある飯田橋へ移動した。 

 

 「もやい」の稲葉さんは生活保護の受給を考えている人の相談にのったり、保証人を引き受けたりと日々忙しい仕事の傍ら時間を割いて、保管してある絵をすべて見せてくれた。坂本さんは、生前もやいにもよく顔をだしており、稲葉さんは葬儀にも参列したとのことだった。ひと通り、画像を撮影させてもらったあと、私は思い切って稲葉さんに、ビッグイシューを広める音楽イベントを考えていること、「H寺」で前年に行ったイベントのこと、場所を変えて続けていきたいことなどを相談してみた。稲葉さんは、この大して知名度もなさそうな一人の歌い手の提案にその場で興味を示してくれ、ビッグイシュー、それから浄土宗若手僧侶から成る「ひとさじの会」の方々へと繋げてくださったのだった。 

 

 こうして思いがけず組まれたこのタッグは、とても強力で、それぞれが経験と人脈と熱意を持つ人々で溢れていた。こうした協力体制のもと、「ひとさじの会」の浄土宗つながりで使わせてもらった「梅窓院」での第一回目、つまり第二回目のサポートライブを無事に終えることができた時、私は坂本さんがあの世からさり気なく導いてくれたかのような、この展開と人のつながりとに感謝でいっぱいだった。そしてもう1つ、浄土宗との不思議な縁についても感じざるを得なかった。

  

 坂本さんと出会う1,2年前、やはり大学時代に私はサイパン及び南洋群島と呼ばれた地域に興味を持った。そこはかつて日本の統治下にあり、日本語教育も行われていたのだった。卒論や修論に絡むわけでもなかったが、私は大学~大学院時代に数回サイパンに取材に行った。飛び込みで地元の老人ホームに行けば、日本語をしゃべれるおじいさんおばあさんはまだまだ残っていたのだ。そうして、彼らの記憶や、記憶の底に眠っていた日本の歌などを聞かせてもらいながら、戦前サイパンへのイメージを自分なりに膨らませていった。

 

 その中で私は青柳貫孝という一人の浄土宗住職に興味を持った。彼はインドや東南アジアで仏道を説き、かのタゴールに茶道を教えたという逸話の持ち主で、その後サイパンに南洋寺という寺をつくり住職となると同時に、サイパン女学校の前身となるサイパン家政女学校の創設者でもあった。島民にも茶道華道を教える場を設けたり、島民2名を東京の家にひきとって留学させてもいる。

 

 戦後は八丈島に渡って香料の生産活動を指導し、晩年は茶道を教えたり易者をしながらつつましく暮らしている。この異色の僧侶の恩師が、渡辺海旭という浄土宗の僧侶であった。

 

  渡辺は浄土宗の派遣するドイツへの留学生となって見聞を広め、帰国後の大正日本で初めて社会慈善事業を展開したエライお坊さんだった。宿泊所、食堂、職業紹介、質屋、保育所、障害者支援、住宅改築、仕事づくり、朝鮮人学校の設立など、渡辺がリードした事業は実に多岐に渡った。彼は、金持ちばかりが文明の恩恵を受ける世の中で、貧困層を支援する事業は、宗教者が動かなければできないという使命感を持っていた。

 

  第一回目のイベント開催の「H寺」での苦い経験をした後、たまたま「真夜中」という雑誌でサイパンについての連載を持っていた関係で、この渡辺についても調べ始めた私は、大変な勇気をもらう思いだった。日本のお寺にはもう期待できないのかな、と悲観していたところに、大正時代にこのような動き方をした僧侶がいたことがとても嬉しかった。そして、このことに感銘を受けてしばらくして、私は稲葉さんから渡辺の意志をひきつぐ浄土宗僧侶たちの「ひとさじの会」を紹介されたのだ。普段からおにぎりを手渡す野宿者支援に取り組む彼らは東日本大震災の被災地にも足繁く通ってボランティア活動をしたり、障がい者の授産施設と連携したりと社会とのゆるやかな繋がりの中で、気負わずに仏の道を実践している。

 

  思いがつながる、ということがある。思いがみちびく不思議な縁、というものがある。大きな会場で、音楽も座談会も食べ物も!と欲張ったフェスは、ひとりでは到底実現できないものだ。言い出しっぺとして、一つの思いが形になっていく経験はとても大きなものだった。書いてしまうとありきたりだが、人とのつながり、そこから生まれるパワーの大きさをひたすら感じた。

  

 人は一人で生きてはいない。人は人と生きている。恋人が、友人が、先生が、お兄ちゃんが、妹が、お母さんが、おじいちゃんが、叔母さんが、そういえば買っていたあの雑誌。面白いって言ってたあの雑誌。そんなところから始まって、この雑誌が広まっていく可能性はまだまだあちこちに転がっていると思う。一冊ビッグイシューを買うこと、それについて誰かにちょこっと話すこと、読み終わったら読んだことのない知人にあげること・・。今日集って下さった皆さんが、そんなささやかなサポーターとなり、なり続けてくださること。この社会に、失敗して転んでもすぐつかまれる手すりや、上っていけるはしごのようなシステムが増えていくこと。ビッグイシューがその先駆けとして、これからも広がり続けることを願いつつ。 

 

 ご来場、ありがとうございます。